映画とは何か: フランス映画思想史 (筑摩選書)
映画とは何か: フランス映画思想史 (筑摩選書) - 三浦 哲哉による映画とは何か: フランス映画思想史 (筑摩選書)は筑摩書房 (2014/11/12)によって公開されました。 これには236ページページが含まれており、本というジャンルに分類されています。 この本は読者からの反応が良く、2人の読者から3.5の評価を受けています。 今すぐ登録して、無料でダウンロードできる何千もの本にアクセスしてください。 登録は無料でした。 サブスクリプションはいつでもキャンセルできます。
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映画とは何か: フランス映画思想史 (筑摩選書) の詳細
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書名 : 映画とは何か: フランス映画思想史 (筑摩選書)
作者 : 三浦 哲哉
ISBN-10 : 4480016074
発売日 : 2014/11/12
カテゴリー : 本
ファイル名 : 映画とは何か-フランス映画思想史-筑摩選書.pdf
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■「自動性」と「信」2人の映画監督と2人の著述家の「映画思想」を紹介する内容だが、それらが思想史というほど直接つながっているわけではない。「自動性」や「信仰」といったフィルターを通じて、思想の共通性を浮かび上がらせようという試み。史的というよりむしろ共時的なアプローチとも言える。本書のキー概念となる「自動性」という言葉は、序章で、長らく誤解されてきたバザンの「リアリズム」概念のパラフレーズとして導入される。それは「映画のイメージのある直接的な力」とされ、そこから4人にとって「映画とは何か」が導き出されていくことになる。もうひとつ、特に2章以降で重要になるのが「信仰」である。バザンとブレッソンのカトリシズムと「自動性」の関係、また両者の映画理論の関係が解説される。そしてドゥルーズも、「世界への信を再開させる力」を映画にみていた。「信じること」、ましてや宗教が議論に入り込んでくることに、戸惑いを覚える読者もいるかもしれない。しかし、「自動性」という映画の特性に何を見出すかは、このテーマ抜きでは語れないものとされている。また、ここには、今日における創造行為の可能性をいかに肯定するか、という切実な著者の問題意識がある。■思弁性のつよい映画論たしかに、そうした著者の問題意識とは無関係に、4人の映画論へのコンパクトな解説として本書を読むことができる。実際、「自動性」概念の使い方がやや恣意的であるのと、それも原因の一つとなって各章の独立性が高いことから、1つ1つ別の論考としてみてもよいと思う。無駄に小難しい文章ではなく、時々それまでの内容を要約するなど親切とさえいえる書き方だが、副題に「思想史」と付けるだけあって、なかなか抽象的・思弁的な議論が展開される。さらっと読める入門書とはいいがたい。以下、各章の要約。■第1章ジャン・パンルヴェパンルヴェの科学映画は、ズーム・イン/アウトや、クイック/スロー・モーションによって、もともと人間が知覚できない世界を知覚可能にする。それは、人間の自然な知覚を相対化するが、他方ではそれが運動の「自動転写」であることで、我々はそれを真実のものと受け止められる(一定の親密さを感じることができる)のだ、ということになる。またパンルヴェは人形(つまり無生物)を用いた作品も残しているが、それらが科学映画における微生物たちと同様に観られうるのは、やはり「自動運動」という一点においてである。序章のなかで、「世界のまとまりそれ自体の認識をそのつど『再開』させる映画の力」は、映画のもつ「自動性」によって可能となると著者は述べている。パンルヴェはそれを科学映画と人形映画という異なるジャンルで実践してみせた、というわけである。この章は特に、続く3章との関わりが分かりにくい。しかし、よく読むと伏線のような記述が散見される。例えば、「『見せかけ』に還元された映画」において、運動の速度を技術的に調整することによって初めて知覚されたイメージが人間に「相対性のめまい」を起こすという事態は、次のバザンの章で言われるような、「現実世界」と「想像的なもの」との交差・錯綜と類似している。もっといえば、「めまい」とは、第4章でいう「思考の再開」をもたらす自動的イメージの精神衝撃のことでもあるだろう。■第2章アンドレ・バザン続くバザンの章では、1960年代の政治の季節以来、客観性という意味での映画のリアリズムを素朴に称揚したとしてバザンが批判にさらされてきたが、近年は再評価されてきているという文脈を示したうえで、著者自身のバザン論が開陳される。まず、バザンのリアリズム論について、彼がたえずそれを「心理」や「神話」という次元で語ろうとしてきた、ということに注意をうながす。要するにバザンの「リアリズム」とは、映像がそれ自体として客観的だという話ではなく、観客が「なんてリアルなんだ」と感じるという心理的次元の話なのである。そしてそれは、カメラの自動転写能力によるものだ。この自動転写能力、つまり「リアル」の言い換えとしての「自動性」は、本章の場合だと「イメージ(想像的なもの)の自律性」として説明される(このように肝心の「自動性」概念が、章ごとに微妙に異なったニュアンスで使われているので厄介だ)。想像的なものの自律性なるものについて、バザンは理論化してはいないが、スター俳優に関する諸論考のなかで示している。要は、スターは神話の登場人物のように「自律」した存在であり、そこから現実にも影響を与えうる、ということだ。総統の演説動画が彼を神話化し、逆に『独裁者』が彼を脱神話化するように。また、晩年のチャップリンは、これまでの作品によって観客が固定観念として抱いている自分へのイメージを前提に、それを裏切るような役を演じることで、自分自身の脱神話化を試みたのだという。この俳優論によって示されたのは、「想像的なものの自律性」における、「想像的なもの」が「現実」として現れるという側面である。次に、とくにドキュメンタリー映画を念頭に、もうひとつの側面について論じられる。「現実」を記録した映像が、「想像的なもの」として自律し、世界に残り続ける、という側面である。つまり写真や映画の登場は、ベルクソンの言う「純粋過去」が単なる理論的構築物でなく現実味を帯びるという世界の変容をもたらしたのだ。映画によって、「想像」と「現実」は交差しながら、世界を二重化してしまった。そして映画とは両者の錯綜のなかで生まれる複雑な織物であり、その拮抗が具体的なかたちを持ちえたとき、それは「魂の現実性」を帯びる。バザンが挙げるその特権的な例が、次章でとりあげられるロベール・ブレッソン監督である。……ただ、これまでの議論は、この章ではほぼ「イメージの自律性」に還元されている「自動性」概念ともども、「リュミエールかメリエスか」という教科書にありがちな図式と大して変わらないように思えるのだが、どうだろうか。バザンを取り上げたこの章は、バザン自身に由来するかどうかは知らないが、必要以上に思弁的な気がする。もし、独自性を見出すとすれば、それはやはり「信」というテーマのほうにあると思う。「魂の現実性」という言葉からも分かるように、敬虔なクリスチャンだったバザンの映画論にも根底にはカトリシズムの影響がある。バザンの言う「完全映画の神話」、つまり「現実を完全な姿で複製し、保存するという神話」が映画の起源=目的として在るという目的論的世界観も、考古学者かつ修道士のピエール・テイヤール・ド・シャルダンの影響が大いにあるという。しかし他方でバザンは、「純粋過去」としての映画、つまり「あらゆる場所が撮られた即自的な過去としての映画」というヴィジョンを示していたのだった。とすれば、この神話ないし信仰とは矛盾するのではないか?と著者は問う。この疑問は正直ちょっと分かりにくい。というのも後者は、完全映画の神話の実現をめざす不断の営為のことだろうと捉えるのが普通だと思うからだ。とはいえ、予告されているように、ここで著者が言いたいことは次章を読めば何となく分かるだろう。■第3章ロベール・ブレッソンブレッソンの章だと、「自動性」概念は、彼が俳優の演技に求めた理念のことになる。ブレッソンの映画において、俳優たちの人格や内面をはぎとられた自動運動としての演技は、新しい意味が「受肉」しうる空の容器となる。「受肉」は、過去に既にあったオリジナルを再現する「表象」とは異なることが強調される。「記号の指示作用はつねに不確定であり、可変的である」。受肉されるものは偶然的な未来に委ねられるため、つまるところブレッソンにとって映画づくりは一種の「賭け」となる。このようにして映画は信仰と関係する。ここから、バザンの章の最後で著者が言いたかったことは、次のようなことだろう。「現実を完全な姿で複製し、保存するという神話」、これはやはり心理的次元の話なのだ。つまり、私たちが生きている現実以上に、映画が「現実らしい」と感じられる瞬間が訪れるという期待である。確かにそれは、宗教的啓示に似ているだろう。ブレッソンの映画手法は未来に起こるかもしれないその瞬間のためであり、したがって、撮影とは「準備を整えるだけのこと」という言葉はそういう意味で解釈される。■第4章ジル・ドゥルーズ最終章では、本題のジル・ドゥルーズの『シネマ』を紹介する前に、それが刊行された頃の映画をめぐる言説状況を説明する。そのために、クリスチャン・メッツが呼び出される。メッツの映画記号学が、「映画への不信」という1970年代以降の鑑賞者のモードを反映したものだという社会学的解釈がなされ、つまり人びとが映画を素朴に観なくなった時代として現代を位置づける。そこで著者が称揚するのは、ドゥルーズの「単純さ」である。もちろん、これはドゥルーズが分かりやすいという意味ではない。しかし、『シネマ』が「直接に与えられた形でイメージを捉えること」を実践してみせたという意味で「単純」だという。しかしこれは著者がしょっちゅう用いる類のレトリックであり、本書はこの「直接に与えられた形でイメージを捉えること」について長々と説明することになる。それはベルクソン的「直観」のことであり、『ベルクソンの哲学』に即してその概要を紹介してくれる。ここはありがたい。そのうえでドゥルーズの映画論が解説されるわけだが、ここでは「自動性」は、まず「自動的運動」そして「精神自動装置」のことである。運動イメージと思考の調和は、「感覚→情動→選択→行動」という有機体の行動様態をまねる映画、つまり西部劇を範例とする「行動イメージ」の映画によってもたらされる。このような映画においてイメージと思考が調和するのは、もちろんイメージが精神に自動的に入ってくるためだが、しかしながらもちろん調和しない場合もある。つまり「非-調和的で暴力的に観客の思考に働きかける映画」も一方にはあり、それもまた映画のもつ「自動性」による。自動的に入ってくるイメージが「精神衝撃」を与え、観客(大衆)の思考を目覚めさせる、ということが革命的・前衛的な映画の作り手のあいだで考えられるようになる。こうした夢はけっきょく挫折する。ドゥルーズが語るところによれば、その理由は①前衛が極端に「実験的な抽象化」に走りすぎたり、②衝撃が単に映画内の暴力的なイメージと結びつくだけの「商業的な具象化」ひいては政治的プロパガンダに行き着いたり、③そもそも映画が観客の思考を止めてしまうものだったりしたせいである。……が、3点目、つまり映画が露呈させた「思考の無能力」に、戦後映画の転回の契機があるという。有機体の感覚運動図式に則る「行動イメージ」とは対照的に、戦後映画の主人公は、応答できないもの、視覚できないもの、思考できないものに直面する。それは思考に対する、映画イメージの自動的かつ直接的かつ暴力的な介入である。そこから、新たな思考が開始されるというのである。なぜ、それが大事なのか。それは、マスメディアや大量生産された商品などを通じて、「この世界と私たちの思考とが硬直したイメージの紋切り型に覆われ」てしまっているからである。大半の映画も、そのような「紋切り型、定型、出来合いのヴィジョンや言い回し」から成っているのが現状である。しかし、自動的なものの衝撃によって思考を不能性に直面化させても、それがどのように再開するのかは、事前には分からない。つまり「賭け」である。ここで賭けられている希望とは「人間と世界の絆、愛あるいは生を信じること」である。……なぜ本書では、「信じること」についてかくも熱心に論じられるのか。それは、本書の根本的な問題意識に関わっている。映画はしょせん作り物の娯楽であり、一時の気晴らしに過ぎない。これが映画に対する普通の考えだろうが、「もし、映画がそれ以上のものであるとしたら、それはどのような映画か?」という問いが、著者にはある。それは映画にとどまらず創作全般、ひいては何らかの「新しいこと」の可能性をいかに肯定するかという切実な問題なのだ。今日、それが決して容易ではないことに、自分を含め多くの人が同意するのではないか。結局のところ、創造(あるいは始まりや出会い)とは常に賭けであり、信による飛躍が求められているのだ。
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